歴史の教科書などで、摂政政治(摂関政治)とか院政なんてよく聞きませんか?

単純に政治を行っていたのが、摂政(天皇の補佐役)なのか、上皇や法皇(引退した天皇)という違いがあるのですが、ここでは少し掘り下げてみたいと思います。

摂政政治とは?

摂政とは、君主制を採用する国家において、君主が幼少、女性、病弱である場合などに、政治を行うことが困難な場合に君主に変わって政治を行う役職者のことです。

多くの場合は、君主の後継者、兄弟、母親、または母方の祖父や叔父などの外戚などが就任することが多いです。

諸外国だと、イギリス・オランダ・スウェーデン・スペイン・デンマーク・ノルウェー・ベルギ―などの王室が残っている国では、国王の補佐役として採用されたこともありました。

これらの国でも、現在は大統領や首相などの行政府の長が政治を行っており、王族が政治を直接統治している国はだいぶ少なくなっています。

日本だと藤原氏が権力を独占した摂関政治と言った方が馴染みが深いですが、海外では、摂政が権力を独占したという例があまりありません。

あくまで、補佐役だったということだったのでしょうね。

また、海外には関白という役職はありませんので、摂関政治(摂政・関白政治)というのは日本独自の言い方です。

次に摂関政治について触れてみたいと思います。

摂関政治(藤原氏の統治)とは?

引用元:藤原氏まとめ

摂関政治とは、平安時代に藤原氏(藤原北家)が、天皇の外戚(母方の親族)として、摂政や関白の役職を独占してた政治体型のことです。

天皇が成人男性の場合は関白、女性や子供の場合は摂政と呼ばれています。

有名なのは、藤原道長・頼道親子ですよね。

日本で最初の摂政は、聖徳太子(厩戸皇子)で、推古天皇(日本で最初の女性天皇)が即位した際に、補佐役として抜擢されたのが始まりでした。

その後、時代は進み、権力を一豪族である蘇我氏が独占し、それに反発した中大兄皇子(天智天皇)と、中臣鎌足らが蘇我入鹿を殺害し、政治権力を天皇家に戻しました。

これが「大化の改新」と言われる政治クーデターですが、中臣鎌足は、この恩賞として藤原氏の姓を与えられ、藤原氏の祖となりました。

鎌足の息子である藤原不比等は、自身の娘を天皇に嫁がせ、発言力を強めていきました。

不比等の死後は、4人の息子によって権力闘争が行われました。

この権力闘争に勝利した 藤原房前 (不比等の次男)が、藤原北家とよばれるようになり、以降、藤原北家の一族が、「摂政・関白」などの重要な役職を独占するようになりました。

藤原氏の最盛期は、藤原道長の時代です。

道長は、自身の娘を天皇に嫁がせ、生まれた皇子を天皇にすることで自身が摂政(天皇の母方の祖父)となり、藤原氏の最盛期を迎えました。

道長の地位は、息子の頼道に受け継がれ、50年間、関白を務めますが、晩年は、内乱が相次いだことや、頼道と疎遠の後三条天皇が即位したことも影響し、摂関政治は衰退し、新たに院政が台頭していきました。

院政とは?

院政とは、天皇を退位した人物(上皇、法皇)などが、政務を天皇に代わりに行うことで、摂関政治が衰えた平安末期から武家政治が始まるまでに行われた政治手法のことです。

1068年に即位した後三条天皇は、藤原氏を外戚(母方の親戚)にもたない天皇で、藤原氏の影響が及ばないのは実に170年ぶりだったそうです。

その後、後三条天皇は自身に政治の実権を取り戻すべく、自身が直接政務をとる「親政」を実行し、後三条天皇の死後は、息子の白河天皇に受け継がれます。

白河天皇が退位し、院政を始める

白河天皇は、関白を置いていましたが、自ら「親政」を実行しています。

ところが、1086年に息子の堀河天皇(当時8歳)へ譲位(天皇を退位すること)し、上皇(大上天皇)となり、幼い堀河天皇に変わり、引き続き政務を行っています。

これが院政の始まりと言われており、以降、鳥羽天皇、後白河天皇、後鳥羽天皇も退位後に院政を行っています。

ただ、後白河法皇(天皇を退位後の名称)は、当時の実力者である平清盛と対立し、幽閉されていますが、後に後白河院制は復活しています。

その後、鎌倉幕府が開かれ、政治の実権を武家が持つようになっても院政は江戸時代まで存続しています。

1889年(明治22年)に制定された旧皇室典範により、天皇の譲位は禁止され、天皇の崩御のみ皇位の継承が行われることが規定され、完全に院政は撤廃されています。

※平成から令和の代替わりは、一代限りの特例で行われました。

現在の日本では、政治は内閣総理大臣を長とした内閣が行うことになり、摂政政治や院政などが行われることはありません。

以上、ここまでお付き合いありがとうございました。